英語が苦手な私の北米暮らし

日本で出会った彼と異国籍同士の恋愛から結婚。英語に悩みながらのアメリカ生活日記

シアトルと言えば... アンダーグラウンドツアー編②

↓の続きです

www.co-3c4.infoシアトルで人気の観光ツアー”アンダーグラウンドツアー”www.undergroundtour.com実は既に3回参加したのですが、ガイドさんが毎回違うので毎回面白いです
昼の回と夜の回で趣が変わり、夜の回だと大人にしか話せない歴史もちょこちょこ入ってきます
その辺りの歴史はまた別記事にて!

前回はようやく火事が鎮火したところまで紹介しました
その時刻は翌日午前4時
約13時間燃え続けた大火災の被害は、甚大な物でした
120 エーカー (東京ドーム10個分)が焼け野原となり、 5,000人が失職
1889年の人口はデータが見つけられませんでしたが、1890年のデータはおおよそ4万人
一夜にして人口の10%もの人に影響がありました(流入してきた人が多い時期なので実際の割合はもっと大きかったと思われます)
建物だけの被害で800万ドル、総被害額は2,000万ドルを超えると概算されました
死者は出ず怪我人もごく少数であったというのは幸いでしたが、一夜にして全てを失った人々の心情を思うとゾッとします

しかしそこからの動きは速かった
鎮火した日、即ち火事の始まった翌日6月7日午前11時には600人のビジネスマンが集結し、どう協力して復興していくかの会議を催しました
その中で決まったのは、略奪行為を防ぐために200人の治安維持部隊による厳戒態勢を2週間に渡って配置、武器庫だった場所を食事処に改装し市民に食事を提供、それに続いてテント営業のレストランが立ち上がりました
18日には火事の前に注文していた資材が届いたこともあり、20日には治安維持部隊も閑散
火事の終息から1か月以内には100を超える企業がテントの外で営業を開始したのです
元々この地で営業していた企業の殆どが拠点の変更ではなく、元の場所で営業することを決めました
木造だった建物はブロックづくりに変更、一年以内には465のビルが再建され工事も殆ど終わり営業が再開されました
そしてこの時建物1階部分は埋められて旧2階を1階として再建したことにより、今の坂だらけのシアトルの誕生となったわけです

過渡期には両方の階で営業を行っていたため、今でも道に自然光を取り入れるためのガラス加工の名残を見ることができます


(↑中から天井を写した写真、右下のあたりが自然光の為のガラス加工です)
一方人の導線は大変なことになりました
外から1階部分の移動には一時的に梯子が使われており、馬車は当然通れません
不自然に道が途切れるので、夜には酔っ払いが落ちてケガをしたり亡くなったりすることも多発したそうです

また火事をコントロールできなかったとされた当時の消防局はボランティアとして活動していたにも関わらず人々から嫌がらせに遭い、たくさんの消防員が退職しました
危機感を覚えた街は消防システムの見直し、細く木造だった水道管を整備し消火栓も増やし消防署を新設
他にもいろいろな改善を行った結果、現在までの発展の礎を築いたといえるでしょう

今日の大きな街にはこんな歴史がありました
ツアーではこの歴史の中で活躍した人、復興時の面白エピソードを交えながら埋められた旧1階部分を探検します


バーの跡と思われるエリア、ツアーがスタートして最初に入るエリアです


柱の回りに設置されていたソファでしょうか、火事の後放置されたようにも見えます


ちょっとわかりにくいかと思いますが、お風呂!130年前なので現代と比べると小さめですね!

ツアー最後に訪れるお土産エリアの手前の展示物

実際に使われていた場所に入れるというのもすごいし、ガイドさんが本当にお話上手なのでとてもお勧めです!
長くなってしまいましたが、お付き合いいただきありがとうございました!

 

 

 

+++参考+++

content.lib.washington.edu

en.wikipedia.org