10数年前に亡くなった祖母は東京大空襲の時、赤坂を駆け抜けていた
当時浅草に住んでいた彼女は、その日たまたま兄を訪ねる為に赤坂へ赴いていたそう
そして始まった東京大空襲
空襲、というより火事から逃れるため、走って走って辿り着いた先にあったプールに飛び込んだ
彼女が辿り着いたのは、アメリカ大使館
敵国大使館とはいえ、背に腹は変えられないから夢中で飛び込んだという
後から次々に人が増えていったが、辿り着いた時には黒こげでもう亡くなっている人もいたそうだ
家なんて焼けちゃって、何にもないよね
とポツリとこぼすように、無表情で語っていたのが印象的だった
私がこの話を聞いたのは恐らく小学生の頃
祖父母に戦争の話を聞きましょう、という宿題だったのだと思う
聞いた当時はアメリカ大使館なんて用ないけど、プールに侵入した祖母が助かってよかったと思ったのを覚えている
祖母にとって私は初孫で、大層可愛がってもらったらしいし、私も優しくしてくれる祖母が大好きだった
晩年祖母はアルツハイマーで記憶が混濁し、やがて娘たちも自身の兄弟も何もかも思い出さなくなっていった
残念なことに私が覚えているのはアルツハイマーに侵されていく祖母の様子の方が多い
ただ、色んなものを忘れた中で不思議と私の事はほとんど忘れたことはなかった
タイミングによっては、手を握り、私を褒めてくれた
綺麗ね、こんな素敵な子、誰の子でしょうね〜と微笑む祖母
孫だと分かっているのに間(母)は抜けてしまうアルツマジック
あんたの娘が育てたのよ!
と母はツッコミ、
あら、そう?
と楽しそうに笑い、他の家族も皆笑った
娘であり介護をしていた叔母や母を忘れているのに、孫の私だけを覚えているのは正直申し訳なく、ジリジリした気持ちになった
しかし人生の中で初めての孫という存在が病に侵されても忘れないということは、それだけ嬉しかったことなのかもしれない
今は喜んでくれていたならいいか、と思うことにしている
たくさんの鮮明な思い出があるわけではないが、大事にされていたのは間違いない
私の自己肯定感が死ななかったのは多分祖母がたくさん褒めてくれたおかげだと思うので、私にとっても祖母は掛け替えのない人物だった
時は流れ、聞いた当時は一生縁がないと思っていたアメリカ大使館
夫のパスポート更新、婚姻関連書類の取得、私の永住権のVisa面接
現時点で既に3度も訪れているのにはびっくりだ
残念なことに、いずれの時も私は祖母の話を一切思い出さなかった
思い出したのは数ヶ月前、特に何もきっかけはなく突然ふっと思い出が蘇ってきた
大使館に行った時に覚えていたら、プールを、遠くからでも、その方向を見てみたかった
そのプールのおかげで私は今日ここにいる
例えばなんて言ったらキリがないが、そこに人種差別主義者の駐在員や兵士でもいたら撃たれていても何ら不思議はないのだ
アメリカ国内でアジア人差別が浮き彫りになりはじめた昨今、さらに強くそう思う
次に大使館を訪れることがあったら、今度は機会を逃さず、そこで亡くなった方にはご冥福を、祖母を助けてくれてありがとうと心の中で伝えたい